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『雷電本紀』飯嶋和一

 「蜘蛛は空を飛ぶんだ」と知人が話してくれた。糸を空に流しておいて、足を離し、その糸に乗っかって飛んでいく。中国大陸から海をわたってやってくるとか、太平洋の沖合でも船に蜘蛛の糸がひっかかるとか、蜘蛛にかぎらず、蝶や蚊だって海をわたることがあると言う。
 弱虫、泣き虫、腹の虫、虫酸が走る、虫のいい話。どうも虫はあまり好かれていない。僕らの日常で「虫」はひとくくりに「虫」だ。だけど「虫」は環境適応力がとても優れている。その多様性は生物種の半分以上が昆虫であることでもうなづける。21世紀の大テーマとなっている環境と生物多様性にとって、虫こそがトップランナーだ。「虫」はエコロジーなんて言わない。

 本著に、蜘蛛が空を飛ぶ場面がでてくる。知人から話を聞いてから間もない頃に読んだのでとても驚いた。
 男が突然、蜘蛛の話を始める。男は江戸米問屋打ちこわしを組織立てした罪を負い、名を変え生きていくことを選ぶ。
「こん次生まれて来る時は蜘蛛に生まれて来たい。おいらの在所は旦那、大きな川のそばで、雪が降る前、霜が川の枯れ草を一面寝かせる頃になると蜘蛛が飛ぶんです。何匹も、何匹も。こう尻から糸をただ垂らして、長々と、それが川風になびく。それでもって、大風が吹くのをじっと待っとるんさ。こんな爪の先ほどもねぇこまかい蜘蛛なんですが、大風がふうと来ると、空に舞い上がる。大きな川をこうして渡るんです。その糸がね、旦那、いくつもいくつも川の上にかかっとるんですよ。いくつもいくつも。それが陽の光で光るんだ・・・」
 男の背負っている生を、大空を飛ぶ蜘蛛に見立て、美しい風景として再構築する。エコだとか、環境だとか言わず、小説家は美しい風景を描くことで、世界観を変えうる力をもっている。
 蜘蛛はそれからどこでどう生きたのか。対岸の野で生を送り、果てたのか。しかし、大河を渡った証だけはかすかな冬陽に映えて大河の空高く、光っている。(2018.10.30)