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<場所>と<わたし>と住居

『住宅建築』2013年12月号掲載文

小川洋子の小説『博士の愛した数式』の中の一節を引用する。数学者には及びもしないが、私たちのめざす空間のイメージはこんな世界を漂っている。
「数式たちが連なり合い、一本の鎖となって足元に長く垂れ下っていた。私は一段一段、鎖を降りてゆく。風景は消え去り、光は射さず、音さえ届かないが怖くなどない。博士の示した道標は、なにものにも侵されない永遠の正しさを備えていると、よく知っているから。
自分の立っている地面が、更に深い世界によって支えられているのを感じ、私は驚嘆する。そこへ行くには数字の鎖をたどるより他に方法がなく、言葉は無意味で、やがて自分が深みに向かおうとしているのか、高みを目指そうとしているのか、区別がつかなくなってくる。ただ一つはっきりしているのは、鎖の先が真実につながっているということだけだ。」

まず〈場所に立つ〉こと。〈場所〉から学び、そこに〈私たちによって作り変えられるべき世界〉ではなく、〈私たちひとりひとりがそれによって支えられている世界〉を発見すること。「発見的方法」と呼ばれてきたこの計画の方法論は、私たちにとっても大切な計画への指針となっている。(住宅建築No.426号 特集『生きつづけている場所で』参照)
建築を設計する際には〈場所〉を主体として考えるような、大きな環境に身をゆだねるような態度が、よい建築をつくるためのふさわしいアプローチであると考えてきた。
ここ数年、住宅を設計する機会が増えるにつれ、〈場所〉とともにもうひとつ欠かすことのできない視点を得る。まったくあたり前のことなのだが、それは〈人間〉=〈わたし〉の存在であった。打合せの席で私たちの目の前にいる〈人間〉=〈わたし〉があまりに具体的な感情で、全人格をかけて向かってくるエネルギーに圧倒されるからだろうか。それを受け止めて余りある回答に向かうこと。何よりそれが住宅設計の醍醐味である。
〈場所〉と〈わたし〉が織りなす感情が、そこにしかない住居のかたちをつくりあげていくのだということを、設計を受けてから現場までの限りのない話し合いの中から実感するのだ。
住居には、〈場所〉と〈わたし〉の〈無意識〉が映し出されると感じることがある。
「フォルムが美しい」とか「フルハイトの窓は開放的で心地いい」とか「スキップフロアは楽しい」というような、日常のレベルで誰もが了解できるような意識ではなくて、もうすこし深いところにある人間の感情をくみ取ることを大切にしたい。普段は言葉にしない、〈無意識〉のレベルに沈んでいるもののことだ。次のような建築的な経験のいくつかは、そうしたことを考える動機となっている。

タンスと時計
 『住宅建築』の取材(住宅建築No.426号掲載)で訪れたU研究室設計のマルヒ邸(1968年竣工)でのこと。私たちが訪れるや、家主はさっそく話しを始めた。「例えばね、ここに置いてあるタンス。当時5千円くらいしただろうか、それを買ってね、それから41年間ここに置いたきり。もうちょっといいものにすればいいのにと思わないでもないけどね。でもそれっきり。そういう具合です。」そこから話はすぐに周辺環境、オオタカやフクロウ、木や森の話になっていった。時計のアラームの電子音がピーピーピーと正午に鳴った。しばらく鳴り続いたので気になりはじめていると、家主は話を続けながら立ち上がり、時計に近づきアラーム音を消した。「なにか設定を変えればいいはずなのに、ずっと毎日このままなんですよねぇ」と笑いながら席に戻る。マルヒ邸の濃密な空間に圧されていたこともあったが、あぁこれが暮らしと言うもんだなぁと、妙に得心した。不便な行為を何度くり返しても、またそのままに放置する。限りない小さな矛盾をくり返す。
こういう些細な感情は、誰の身にも暮らしの中でしばしば起こっている。このいっけん怠惰な暮らしの感情を、あんがい住宅を設計する際に私たちは忘れがちになっている。そんな感情はなかったことにして、ついパリッとした緊張感を生活に求めたがる。しかし小さな雑音がさざ波になっても、私たちはほとんどのものごとをいいとも悪いとも考えずにやり過ごしている。住居とは、まさにそんな暮らしの〈無意識〉の集積であるような気がする。

日の暮れ
 私たちがはじめて住宅を設計したときのことだった。北海道のクライアントと打合せを重ねていた。日が暮れるにつれ室内が薄暗くなってきたとき、電気をつけようとしない様子をとても好ましく思い、共感したことがあった。理由を尋ねると、「ゆったりと流れる時間を感じられるので、何となくいつもそうしている」という返事。こうしたエピソードはどんな具体的な要望や説明よりも、意味を持っていた。情感をもってイメージをつくりあげることができる。理屈ではなく、イメージが大切だ。具体的な要望は、日常のレベルで誰もが了解できるような意識であることが多く、時に誰の言葉かがわからなくなるから。

腰掛け
私の親父は実家の猫の額ほどの作業場で仕事をしていた。籐を編んで乳母車をつくるのが日々の生業だった。通りに面した3畳ほどの仕事場は、ガラスの引き違い戸がいつも開いていた。その引き違い戸の脇にぽつんとスツールがひとつ、置いてある。近所のおやじたちが代わるがわるスツールに腰かけ、暇をつぶしていった。よく毎日しゃべることがあるなと、小さい頃はちょっと距離をおいて見ていた。
手が仕事を覚えているので、話しながらでもみるみる仕事は進んでいく。どんどん籐が編まれる。いろんな太さの籐がいろんな模様に編みこまれていく。脇にはのこぎりと金槌と釘と、それから籐を浸しておくためのバケツに水が汲んであった。それだけだった。仕事場は3畳もあれば十分だった。東に伊吹山を望む通りに夕陽が差し込む頃、バケツの水を通りにまいたら、一日の仕事はそれでおしまい。
当時は近所にも自営業の人がたくさんいた。通りをはさんだ向いには車の整備工場があって、隣にはクリーニング屋や八百屋、パーマ屋などが軒を連ねていた。砂利道が舗装され、車も増え始めた頃の、どこにでもあった町の風景であっただろう。
スツールとは背もたれも肘掛けもない腰掛け椅子。「腰を掛ける」という行為はこんな近所づきあいのための日常だった。仕事をする親父の横で、邪魔にならない程度に近所の人がちょこんと「腰を掛け」、たわいもない世間話をする。子供心には、無駄話をしにやって来るおやじたちへの毎日の挨拶と、暇そうなウダツの上がらない雰囲気が嫌いだった。
些細な何事もないような場面だったのに、そんな日常が嫌で仕方がなかったという子供心もないまぜで、あの小さな店先空間は〈場所〉と〈わたし〉の豊かな感情を含んでいた、と思い出すことがある。そうした空間は、〈わたし〉の感情だけでなく、おかれている環境全体の中で広がりをもっていた。今となってはコミュニティとか絆などと言い換えられてしまいそうなこうしたエピソードも、当時の人にとってみればまったくとるに足らない〈無意識〉のレベルの退屈な日常だったと思うのだ。
暮らしとは、限りなくくり返される退屈な日常だ。空間は、使いこなされてきた鍋の中みたいに濃密な時間を集積する。集積されたたくさんの暮らしの〈無意識〉によって、住宅というものの本質が浮かんでくる。私たちの関心は、この濃密な暮らしの〈無意識〉に一歩ずつ下りていくことで見えてくるものを観察し、発見することだ。

数学者が世界に隠された〈サムシング〉グレイトを探し求めているように、前掲の作家小川洋子は、物語は作家の中にあるのではない、現実を観察し言葉になっていない物語を発見することが文学であると語っている。
文学は人の心に寄り添うものであり、それは臨床心理学にも通じている。医療関連の本『野の花ホスピスだより』を読んでいたら、強迫性障害という症例についてこんなエピソードがあった。
「お金を払う時、お札の番号をメモせずにおられない女性がいた。ある時、そのメモ用紙を見失う。以来、あらゆるものを捨てられず、家中がごみ袋の山になる。この患者さんに、ある女医さんがかかわる。そして発見する。女性はブドウの種だけは捨てていることを。そこから少しずつ捨てる物を増やす練習をしていく。ごみの山が減っていく。」
こういう治療を〈行動療法〉と呼ぶらしいが、私たちの設計の方法に通じるようで、とても興味深く読んだ。設計とはまさに、ブドウの種を探し出せるかどうか、ではないか。
女医は患者の話に耳を傾け、観察をつづけるなかで〈ブドウの種だけは捨てている〉ことに気がついた。方法論が、つまり〈何か捨てている物はないか〉という着眼がはじめからあったわけではない。患者に傾注して、観察する。その時点ではまだ暗中模索である。ねばり強い傾注と観察から〈何か〉を発見する。〈何か〉は患者によっていつも違うはずだ。

ここで設計にたちもどって考えて見ると、患者は敷地、場所、環境またはクライアントと読みかえることができる。〈場所〉と〈わたし〉、その対象の内面に垂れ下がった鎖を降りてゆくことで、〈何か〉を発見する。その〈何か〉が、〈わたし〉の無意識を〈場所〉につないでくれる。住居とは〈わたし〉が〈わたし〉をとりまく環境に順応していくためにある。
文とスケッチ・羽渕雅己

『博士の愛した数式』小川洋子著(新潮文庫)
『都市住宅7508 特集発見的方法』(鹿島出版会)
『野の花ホスピスだより』徳永進著(新潮文庫)